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【46】木宮泰彦の研究を疑う


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木宮泰彦という人物をご存知でしょうか。彼はなぜ偉いのか。このように疑いながら、彼の書いた書籍を繙いています。
私は、2015年4月に縁もゆかりもない常葉大学へやってきました。自身の勤務する学校の創立者木宮泰彦が日本史の専門家であり、特に日中関係史を研究していると知り、木宮泰彦の研究内容に関心を持ちました。ところが、残念ながら、常葉大学や同じ法人内の諸学校で、木宮泰彦の研究内容について理解を深められる資料はほとんどなく、詳しい人もいません。学外はなおさらほぼ皆無です。
そこで、同僚の教員数名を誘い、「木宮泰彦の研究者としての側面」を一緒に細々と研究しています。2016年度は不採択だったものの、2017年度からは常葉大学共同研究に採択され、今にいたります(https://www.tokoha-u.ac.jp/research-pro/system/cooperative/)。主な活動内容は、木宮泰彦の主著を読むことです。木宮泰彦の研究対象は古代から近世まで、つまり日本でいえば奈良時代から江戸時代まで、中国でいえば漢代から清代までです。私は近代中国史や現代台湾を専門に研究しており、古代から近世までについてはわからないことだらけです。(私のメインの研究活動については、「若松大祐と美麗島」( https://sites.google.com/view/dwakamatsu )やresearchmap ( https://researchmap.jp/dwakamatsu/ ) をご覧ください。)ですから、実のところ木宮泰彦の『日華文化交流史』(1955年)や『日本古印刷文化史』(1932年)を読んだと言えず、全ページをめくったというのが正直なところです。
このような私がわかってきたことを、3つほど紹介しましょう。ただし、すでに日本史研究者の間では、わかりきったことなのかもしれません。第一は、『日華文化交流史』は中国語訳版『日中文化交流史』(1980年)が内容上、最も正確で豊富であることです。訳者の胡錫年が日本語原著における誤字脱字を訂正するだけでなく、引用資料の誤読を正しています(写真を参照)。第二は、『日支交通史』(1926-27年、『日華文化交流史』の前身)と『日本古印刷文化史』(1932年)が内容上の補完関係にあることです。第三は、恐らく木宮泰彦は日本文化の特徴は何であり、どのように形成されたのか、という問いを生涯にわたり持ち続けていただろうということです。
2020年現在、常葉大学は「スッゲェー try next」を掲げています。そもそも何がすごいのか。ぜひ疑ってください。疑うことから学問は始まります。

【資料1】

p.212の後ろから5行目に「柳玭訓」という書名が見える。また同じくp.212の後ろから3行目に「(7)」という脚注番号がある。しかし、p.214には脚注(7)に関する文章がない。

【資料2】

p.201の脚注2では、訳者は「柳玭訓」や「柳玭訓序」という書名が不正確で、正しくは「柳氏序訓」と書くべきだと指摘している。

【資料3】

p.22の4行目に「(6)」という脚注番号があり、p.23の脚注本文(6)に対応している。また同じくp.22の1行目に「柳玭訓」という書名が見える。

それぞれの資料からわかること

⇒訳者の胡錫年が自らの見解を展開している。
⇒木宮泰彦『日華文化交流史』(1955年)にあった誤植(脚注番号)を、胡錫年(訳)『日中文化交流史』は削除している。実は、『日華文化交流史』(1955年)の当該箇所は、木宮泰彦『日本古印刷文化史』(1932年)の一部をほとんどそのまま転載したものだった。したがって、『日華文化交流史』(1955年)は誤植でなく、脚注本文の書き忘れ(転載漏れ)である。そして、胡錫年に非はない。

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