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自然と遊び友達と探求と


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幼少期に住んでいた家の周囲は山や川、そして遊び仲間たちに囲まれていました。山にはターザンごっこするような蔦が垂れ下がり(あるとき蔦が切れて落ちた)、湧き水のところに主のような蝦蟇がいて(そのへんの大人より貫禄があった)、川にはオイカワやエビがいて、暗くなるまで遊んでいました。この自然と遊び友達と自由が人生の核にあるような気がしています。

中学校のとき作文や理科の実験に興味を持ったこともあります。どんなふうに書いてもいい、思ったように実験してもいい、と言われたとき、退屈な作文や実験がにわかに幼い頃の遊び心を満たす機会となりました。

大学へは入れるところに入ったという感じでそれなりに(いまから思えば表面的に)キャンパスライフを楽しんでいましたが、あるとき遊び心が人生を突き動かします。工学系から数物系に転専攻したのです。それは将来のことを考えるとリスキーな進路変更でした(ごく稀にやってしまう)。大学院の先生にはいちおう「数学やりたい」と言ってましたが(なんでそんなこと言ってしまったのだろう)、数学が得意だったわけではありません。

数物系の研究室に配属されると数理物理の研究テーマを与えられました。数理物理学は物理学✕数学です。固体物理や三体問題などの量子系を幾何学的に解明していくという研究テーマは、面白くないわけではないという感じでした。指導教員のおかげで結果をなんとか出すことができました。さらに、自分のこの分野での才能もさほどでもないことも思い知らされました。

すると、また遊び心が疼きはじめました。自分のやりたいことを求めて研究上の放浪がはじまります(職歴もそうなった)。坐禅にはまったのもこの時期です。禅は自己を明らかにする道で、自然・自己と向き合います。この研究放浪期間では何年も成果がほとんどありませんでしたが(良い子は真似しないで)、夢を語り合う研究仲間と出会うことができました。その一人から哲学のなかの現象学をすすめられました。現象学の本は読んでも何を言っているのかわからないというのが定評ですが、禅が役にたちました。

現在、物理学✕哲学の視点から量子力学に対して存在論的解釈を試みています。それに派生して、共生論を哲学やシステムアプローチによって研究しています。これらの研究の根っこにあるのが自然であり自己です。バラバラのピースが組み合わさってだんだんとカタチになりつつあります。長いこと道草をくったなぁ、と思います。ところが、この「自己」だけではまだ足りなかったことに最近気づきました。探求はつづく・・・

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