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みんな違うからこそ面白い!―保育における「子ども理解」というアポリア―


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保育においては「子どもの理解」のもと「子ども主体」の保育を計画し実践することが重要とされています。様々な点で議論されることはありますが、それは概ね必要なこと、大事なこととして受け止められていると言えます。

しかし「子どもの理解」の前提としてある「人を理解する」という行為は、恐ろしく難しいことのように思われます。保育学のテキストでも「おおむねの子どもの育ち」として、2歳児だとこう、5歳児ならこんな感じ、などの目安は示されますが、現実の子どもはそうであったりなかったり、実に個性豊かです。2017年に改定された3要領・指針において示された「幼児期の終わりまでに育って欲しい姿」も到達目標ではなく方向目標とされ、現実の子どもの姿は多様であることが想定されています。また「保育の質の向上」も保育の主要なテーマの一つですが、そこでも「究極的な根拠はない」という立場に立つピーター・モスらの「ポスト基礎づけ主義」からは「子どもが理解可能であるという前提に立たない」という議論もみられます(浅井、2021)。
そして人間の内面について、パスカル・メルシエことスイスの哲学者ペーター・ビエリは、彼の小説の中でこのように述べています。

我々は多層的な存在なんだ。見えない深淵だらけの存在だ。不安定な水銀のような魂と、絶えず動き続ける万華鏡のように色と形を変える気分を持った存在なんだ。

しかし究極の理解にはたどり着けなくとも、保育において「子どもの理解」への取り組みをやめるわけにはいきません。必要なのは、人間を「多層的」で「見えない深淵だらけの存在」と捉え、同じくメルシエの言う「真実が発見できるという推測こそが、まさに間違いなんだ」という恐れを抱きつつ、「子どもの理解」という終わりのない挑戦を続けることなのかもしれません。だって、簡単には理解できない、多様な子どもの姿を追い続けることこそが、保育の楽しみであり、面白みであるのですから。

浅井幸子「「保育の質」を超えてーポスト基礎づけ主義の保育学の展開」東京大学大学院教育学研究科附属発達保育実践政策学センター監修『発達保育実践政策学研究のフロントランナー 第2巻 保育・子育ての社会科学』、中央法規、2021、第10章
パスカル・メルシエ『リスボンへの夜行列車』浅井晶子訳、早田書房、2012

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