グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ



Vol.50


コロナ禍のもとで「ひきこもり」について考える(連載全3回)
(第3回)ひきこもり当事者の持つ規範意識と「情報貧困」について

はじめに
 こんにちは。これまでひきこもり状態の人たちが日常生活のなかで抱えているさまざまなや悩みや不安の背景と推察できる支援の在り方について(第一回)、「ひきこもり」現象が社会問題化しはじめているフィンランドのひきこもり事情をみながら、「ひきこもり」現象の国際比較について(第二回)考えてきました。連載最後の第3回の講座では、ひきこもり当事者がひきこもり続ける背景について、心理的・社会的な視点、とりわけ、自己防衛意識と社会規範意識の二つの側面から考えてみたいと思います。

電子掲示板の投稿メッセージに表れるひきこもり当事者の自己防衛の意識
 ひきこもり専用のインターネット掲示板上に書き込まれた大量の投稿メッセージを分析していると、投稿者たちの「自己防衛」の意識が顕著に表れている「語り」に多く出会います。「自己防衛」とは、「他の攻撃などから自力で自分をふせぎまもること」(「日本国語大辞典」)というのが辞書上の意味ですが、もちろん、その人のおかれている状況や環境によって意味合いは異なります。ひきこもり当事者にとって自己防衛とは、少なくとも電子掲示板上に投稿されたメッセージの内容から判断するかぎりにおいては、「自宅の外に出て、自宅以外の場所で人と接触することを避けること」、つまり「外出しないこと」と同義であるケースが多いという印象を受けます。外出しない(または、外出できない)理由では、例えば、「自分の近所に住んでいて、すでに大学生や社会人になっている幼馴みには恥ずかしくて会いたくない」、「正月の挨拶で家に訪ねて来る親戚の人たちに恥ずかしくて顔を合わせたくない」、「自宅の近くにあるコンビニエンスストアやレンタルビデオ店の店員に、自分のことをあれこれ詮索されたくないので、自宅の周辺で買い物すらできない」、より深刻なものでは「自分の容姿や服装に対するコンプレックスから人にどう思われるか怖いので、他人に見られる場所には出られない」といったものまであります。その一方で、当事者のなかには、自分のことをまったく知らないと思われる人たちがいる場所には出向くことができる人もいて、例えば「自分のことを知っている人が誰もいないくらい自宅から遠く離れた場所へだったら外出できる」とか、「わざわざ自転車を長時間走らせ、自宅から遠方にあるコンビニに買い物に行っている」といったメッセージも多く見受けらました。どうやら、ひきこもり当事者の「自己防衛」の背景には、「無理に外出してまで、人から自分をネガティブに見られたくない、バカにされたくない」という意識が働いていそうです。

ひきこもり研究におけるひきこもりの自己防衛意識の背景
 ひきこもり当事者の自己防衛の意識の背景については、石川良子著『ひきこもりの<ゴール>:「就労」でもなく「対人関係」でもなく』のなかで詳しく述べられています。石川によれば、ひきこもり当事者にとって、ひきこもる行為そのものが「自己防衛の戦略」(石川 p.86)になります。つまり、ひきこもる行為とは、「他者の否定的な反応に晒されることを徹底して回避することにより、精神的葛藤を最小限に抑えておこうとする当事者なりの戦略」(石川 p.101)として捉えることができます。この当事者の自己防衛の戦略としてのひきこもる行為は、前述した電子掲示板上の投稿メッセージの幾つかの事例のなかにも明確に表れています。しかし、ひきこもり当事者の自己防衛意識は、「嫌だから、しない」という単純な「甘え」の構造として理解してはだめだ、と石川の指摘していることには十分に留意する必要があります。どういうことかといいますと、ひきこもり当事者が社会的自立できずに苦しんでいるのは、「(ひきこもる行為)を否定する他者のまなざし、そして当事者自身のまなざしである。そのようなまなざしが喚起する精神的苦痛から、彼/彼女らは己を守ろうとしているのではないか。言うなれば、彼/彼女らは「ひきこもり」を白眼視する社会によってひきこもらされている」(石川 p.103)というのが、石川の説明です。「白眼視する」というのは、冷たい目で見たり、冷たく扱うことです。つまり、ひきこもる行為とは、ひきこもり当事者に対して社会(世間)が冷たく見る、あるいは、冷たく扱うことに対して不安や恐怖を感じ、そのような精神的苦痛から自己を守るための戦略だと考えらます。この石川の説明に従えば、私たちが当事者に対して、「嫌だから、しない、というのは、甘えだ。皆と同じように早く社会に出て、働きなさい」と叱責したり、見下したりすること自体が、当事者に精神的苦痛を与え、さらなるひきこもる行為を助長していることになります。

ひきこもり当事者に求められている社会規範
 この「嫌だから、しない、というのは、甘えだ。皆と同じように早く社会に出て、働きなさい」という言説は、一体どこから生まれてくるのでしょうか。私はその答えを、私たちが日常的に当たり前のように持っている「規範(または社会規範)」ということばに求めたいと思います。「規範」とは、「人に一定のことを「すべし」、もしくは「すべからず」と命ずる規準」のことで、具体的には、1)価値観、2)行動様式、および3)行動様式を保障するための是認または否認の社会的圧力、の三つの要素で構成されています(「日本大百科全書」より)。この定義に従えば、「~甘えだ。~早く社会に出て、働きなさい」という、ひきこもり当事者に対する社会からの要請は、規範の三つめの構成要素である、「行動様式を守らせるための否認の社会的圧力」であると考えられます。であるとするならば、「早く仕事を見つけなさい」にせよ、「早く対人関係を回復しなさい」にせよ、これらの言説の背景には、私たちが社会生活のなかで認識し広く共有している、就労や人間関係の価値観や行動様式に基づいた規範的な意識があるかもしれません。また、そうであるならば、このような当事者への向き合い方は、もしかしたら、ひきこもり当事者に大きな精神的苦痛を与えているかもしれない、また、否認の社会的圧力なっているかもしれない、と謙虚に考える必要もあるかもしれません。

電子掲示板の投稿メッセージに表れるひきこもり当事者の持つ規範意識または社会同調性
 社会的圧力のことを「同調圧力」、また、社会的圧力に対して規範を守らなければならないという意識を「社会同調性」という言い方をする場合があります。「同調」とは、「社会に通用している規範や行動様式にそのまま従い、大多数の人々がとる態度や意見に順応していくこと」(「日本大百科全書」より)を指します。電子掲示板の投稿メッセージのなかには、自己防衛意識と同じぐらい頻繁に当事者の「社会同調性」と捉えられる表現が含まれています。とりわけ顕著にあらわれている同調についての表現として、「自分もみんなと同じように年齢的に「ふさわしい」状態になりたい、なるべきだ」というものがあります。例えば、「高校卒業したら大学にいくべきだ、自分もそうしたい」、「大学を卒業したら就職をして定職に就くものだ、自分もそうしたい」、また「定職を持ちしばらくしたら、結婚して家庭を持つものだ、子ども作りたい、自分もそうなりたい」といった同調の意識です。これらのことから、ひきこもり当事者自身も、社会規範の意識を強く意識していることがわかります。しかし同時に、電子掲示板上に表れている当事者の語りのなかには、多くのケースで、「自分もそうしたい、なりたいが、その状態にはおそらくずっとなれない」という否定の現状認識や将来展望に対する自己否定が続きます。したがって、ひきこもり当事者のおかれている状況とは、世間から当事者に対してかけられる外的な社会的圧力と、当事者本人が内面で意識している社会的同調性という、2つの規範意識によって、自分の内と外とを自己防衛によって二重に閉じてしまい、ますます身動きが取れなくなってしまっている状態だ、と言っても決して言い過ぎではないでしょう。

ひきこもりの情報貧困
 以上を踏まえた上で、最後に、私の研究領域について若干お話しさせてください。私は、「図書館情報学」という研究領域の一つである「情報行動研究」という分野のなかで、「ひきこもり状態の人や不登校状態の人たちへの情報支援の研究」をメインに研究活動を行っています。いま、私の最大の関心事は、「ひきこもり当事者は、どのような内容の社会的自立にかかわる情報や支援を求めているのか」と、「なぜ、社会的自立にかかわる情報や支援へ辿り着かないのか(または情報や支援の利用を拒絶しているのか)」というもので、全三回の連載のなかでたびたび取り上げた電子掲示板上の投稿メッセージの分析結果や、フィンランドと日本におけるひきこもり状態の国際比較の結果は、この研究活動の成果の一部として紹介させていただきました。情報行動研究の領域には、外部にある情報や支援に辿り着けない、または外部から提供された情報や支援を拒絶するという、ひきこもり当事者の自己防衛的な行為を説明する際にとても参考になる「情報貧困」という考え方があります。この考え方の基本的な立場とは、「人は、自分たちが属する集団内で共有されている価値観や規範とは異なる価値観や規範を持っている外部の人に対して、警戒心を持ち、自己防衛的な行動を取る。その結果として、外部の有益な情報へのアクセスが阻害される」(三輪 pp.146-148)というもので、この考え方を、ひきこもり当事者の自己防衛意識や社会規範意識に当てはめて、なぜ当事者は社会的自立にかかわる情報や支援を受け取らないのか(または、受け取れないのか)ということを説明しよう、というのが、いま私が取り組んでいる課題です。

まとめ
 これまで次の四つについてお話してきました。第一に、ひきこもり当事者のひきこもる行為は自己防衛の戦略の結果であると述べました。第二に、ひきこもり当事者の自己防衛は、彼らが日常的に感じている社会規範意識によって引き起こされることを説明しました。第三に、この社会規範意識には、当事者が外部から受ける社会的圧力と、当事者の内面で意識されている社会的同調性という二つの規範意識があり、このため、当事者は自分の内側と外側とを二重に自己防衛しなければならず、ますます見動きが取れない状態になってしまっている可能性があるということを考えました。そして第四に、ひきこもり当事者のこのような状態を、情報の利用の拒否とか情報へのアクセスの制約という視点で捉えたい場合には、「情報貧困」という考え方が役に立つかもしれないという私の考えを示しました。

全三回の連載を終えて
 全三回の連載のなかで私は、ひきこもり当事者のおかれている状況と、コロナ禍の自粛において私たちの行動が大きく制約されている状況との共通点を探ってきました。例えば、ひきこもり当事者の「できない」という文脈と、自粛で社会活動ができないコロナ禍の状況とは似通った部分が多いこと、また、ひきこもるひきこり当事者が思い描いている人生観は私たちの多くが共有している人生観であるため、当事者が将来展望への不安を感じていたり、挫折を味わっていることと、コロナ禍で多くの人たちが将来に対し不安を感じたり挫折を味わったりしていることとの間にも似通っている部分があること、そして、ひきこもり当事者の自己防衛意識の戦略としてのひきこもる行為は、私たちがコロナ禍のなかで、感染リスクを避けるために自宅に居続けたり、人込みに入ることや人との接触を避けたり、といったコロナ感染症に感染しないためのさまざまな自己防衛の対策と非常に似ている部分があります。コロナ禍の状況のなか、私たちは、仕事と家庭、学び方と余暇の過ごし方、人間関係や社会活動の在り方、さらには将来展望や人生設計など、実に広範囲に渡る日本人の生き方を根本から見直さなければならない時期に入り始めたと、私は考えています。そして、この時期にこそ、「ひきこもり」という状態について深く考え直してみたい、というのが私の思であり、全三回連載を読んでくださった皆さんへの問いかけです。

「コロナ禍なので、自宅で自粛しなければならない。まあ、わたしはいつも自宅にいますけれど。」

このように、私に語ってくれた知り合いのひきこもりの方がいます。私はこの発言に含まれる当事者ご本人の心情はとても重い、と受け止めました。そして、この発言の意味するところを、私なりに深く理解したいとも思いました。そのような姿勢で、これからも「ひきこもり」を考えていきたいと思います。
執筆者 那珂 元
教育学部生涯学習学科 講師
(専門は図書館情報学)
〔参考文献〕
(1) 石川 良子. ひきこもりの「ゴール」 : 「就労」でもなく「対人関係」でもなく. 青弓社, 2007, 251pp.
(2) 三輪眞木子. 情報行動 : システム志向から利用者志向へ. 勉誠出版, 2012, 205pp.

ページの先頭へ戻る