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Vol.46


紙と鉛筆と小さな花。そして今という瞬間にいること。

それぞれの家の中で
 学内での授業が再開して約1ヶ月。制作に打ち込む学生たちの姿も再び教室に戻ってきました。校舎の中を指導しながら歩きまわる1日が終えますと以前に近い生活が戻ってきた事と、外出を自粛しながら過ごしたリモート授業期間中にも大切な気づきがあった事に感謝したいと思うようになりました。
 私のリモート授業(絵画制作)は、自宅の中にある静物(植物と人工物)を鉛筆でスケッチするというものでした。速やかに魅力的なモチーフを見つけた学生もいれば、延々とモチーフ探しを続ける者もおりました。それらのケース一つ一つへ私はアドバイスをオンライン上で行うのです。そんな中で学生が本来持っているスケッチをする能力の高低に関わらず制作に集中できる学生とそうでない者の差が目立っていたので原因解明のため私自身も授業後に学生と同じ課題に取り組む事にしてみました。
 当初の予定では30分ほどで私は描きたい静物を家の中で見つけスケッチを始めているはずでした。ところが意外と描きたい物が家の中にない事に気づきます。しばらく家中をウロウロしながら選んでみますが、どれも地味に思え今一つ描く気になれないのです。描きたい植物も探してみますが、部屋の中にある観葉植物や台所にある野菜や果物はどれも退屈に見えました。そうなりますと珍しい食材を取り扱う店や素敵な生花を扱う花屋へモチーフを買いに行きたい衝動に襲われます。しかし生憎どの店も営業自粛のため休業中でした。その結果家の中で小さなスケッチをするための準備すらできずに過ごすはめになっていたのです。

一人きりで描けるかどうか?
 ところが数日後の早朝、私は庭先で咲いている小さなゼラニウムの花にふと惹き付けられるとそのままコップに1輪生け、何の問題もなくスケッチを開始していたのです。花を見つけてから2時間ほどで小さなスケッチがあっという間に仕上がりました。久しぶりに描く事に没頭し清々しい気持ちで完成したスケッチを眺めながら、全くモチーフが決まらず数日間描けなかった原因は一体何だったのかと私は考え始めていました。
 するとモチーフの良し悪し以前に、どうやら私の中で批判をし続けるもう1人の私が常にしゃべっていたためだという結論に至りました。何を選んでも「これは退屈だ。」「もっと見栄えの良い物でなくてはダメ。」「家の中だけで探すのは無理だ。」といったダメ出しをばかりを自分に行っていたのです。そしてその中には私の意識を過去や未来に連れ回すものも多くありました。それに対して、ゼラニウムの花を描いた時には、ただモチーフに惹かれて描きたいと思っている私が1人きりでスケッチをしていたのです。そう考えますと描く事に集中できない学生の中には、モチーフを選ぶ段階で自分を批判するもう一人の自分の声が大きくなりすぎた者もいたのかもしれません。

今という瞬間にいること
 「而今(にこん)」という道元禅師が好んで用いた言葉があります。今というこの瞬間にいる事、今行っていることのみに専念する事など現代の言葉に置き換えられ良く耳にする事があるのではないでしょうか? これを描く事が好きな人に当てはめてみますと、スケッチする時の状態に非常に近いと感じます。なぜならモチーフを夢中で写生をする時は、鉛筆の1筆1筆に自分の意識が常にありますから、何時間描き続けていても描いている人にとっては「今」の連続になるからです。ところがひとたび「もっと上手に見せよう」「これは失敗かな?」などと考え始めると、いとも簡単に「今」という瞬間から追い出され描く事やモチーフがつまらなくなってくるのです。
 思えば年を取るごとに私の中で自分を批判し続けるもう1人の私ばかりが大きくなり、「今」に集中できぬまま無理矢理絵を描く事が増えていたのかもしれません。そんな中久しぶりに心の中でも1人きりになり家の中にあった紙と鉛筆そして庭に咲く小さな花のみでスケッチに専念する事ができたのです。時間にすればわずか2時間ほどでしたが、鉛筆の1筆ごとに自分の意識がある静かで充実した時間でした。そして描く事に専念できた楽しさからでしょうか?次に描きたいと思える物が家のあちらこちらから次々と現れて来たのでした。
 対面授業が再開し学生への指導を再び教室の中で気軽に行えるようになった現在。気がつくとあれもこれも伝えようとする私がいます。しかし同時に学生それぞれが心の中で1人きりになり制作に専念できているかどうかについても注意を向けるようになりました。大学で美術を学び続けるためには作品テーマに対する論理的な分析や研究は必須ですし、制作上様々な試行錯誤はつきものです。しかし描く事で今という瞬間に居続ける事も不可欠なのだと再認識できました。きっかけは小さな花のスケッチを描いた事ですが、今という瞬間にいる時間を他の場にも増やしていく工夫を楽しみながら見つけていこうと考えています。
執筆者 田宮 話子
造形学部造形学科 教授
(専門は日本画・絵画制作)

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