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Vol.7


今だから学びたい論語


武漢に端を発した新型コロナウィルスはまたたくまに世界を席巻して、多くの犠牲者と市民生活の変容と経済の危機をもたらしました。そして、よく耳にするのが、「変容」という言葉です。行動の変容のみならず、価値観やパラダイムが変わると予想している、あるいは変えなければならないというひともいます。

気鋭の哲学者マルクス・ガブリエルは、いま必要なのは「新しい善のビジョン」だと言い切ります。なぜ「善のビジョン」が必要だというのでしょうか。現実にこの世界を規定している善は、物質的な繁栄です。そのために、より多く生産し、財産を蓄積し、人気を得ようとしてきました。しかしその結果、356万トンもの食料を毎日捨て、地球の浄化能力をはるかに超えた汚染物質をばらまき、人気取りの政治パフォーマンスが日常茶飯事になっています。これは個人レベルでも同様です。

2500年前の中国(春秋時代)でも、公害こそありませんでしたが、物質を主体にした対立・紛争の世でした。そんななかで、やはり「新しい善のビジョン」を提示したのが、孔子です。周知のように、孔子の示した「善のビジョン」とは「仁」でした。しかし、仁は弱肉強食の当時の中国としては時代に逆行する考えです。それでもこの仁によって、人生も政治もうまくいく、という確信が孔子にはあったのです。その真意は、~すべし、という規範倫理としてとられてしまうと、見えなくなってしまいます。仁は決して脆弱な理想論や他者に見せるパフォーマンスではありません。どの人の存在レベルにも備わっている調和した在り方です。最近の研究では、武道においても調和による技の実効性がわかってまいりました。論語は窮屈な善人を育てる書物ではありません。さもなければ、孔子のもとに弟子が三千人も就いていなかったことでしょう。

これまで論語は規範倫理的に解釈されてきましたが、ここでは論語は実存的な教えだという新たな(現象学的な)解釈も可能なのです。つまり、矯正して人を理想的に作っていくのではなく、すでに本来的にもっている理想をそのまま現わしていくという解釈となります。たとえると、粘土をこねていくように人を作る教えではなく、むしろ木彫のように削って中のものを自然に現わしていくのです。それによって、山に籠らずとも、道をこの日常生活の上に無理なく実現する方法を孔子は示したのです。新型コロナウィルスのために自粛していると、自他の関係性にあらためて気づくことがあるかと思います。人間関係がリセットされた今こそ「新しい善のビジョン」による「変容」を学ぶ絶好のチャンスではないでしょうか。

ディープな論語の学びのお手伝いとしてホームページを立ち上げました。お役に立てば幸甚です。

http://kakunogotoku.web.fc2.com/rongo/rongo.html
執筆者 砂子岳彦
経営学部(浜松キャンパス) 教授
(専門は科学基礎論)

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