グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ



Vol.1


言葉には「垢」がつく

便所とトイレ

学生時代に英語学という科目の授業があった。英語のしくみや英語の歴史を学ぶのだが、その授業で先生が「便所とトイレはどちらが汚いか」と質問された。ほとんどの学生は「便所の方が汚い」と答えた。さて、皆さんはどうだろうか。先生は、便所といおうと、トイレといおうと、意図している場所は同じところで、言葉自体には色も臭いもないのだ、とおっしゃった。言葉は長く使っていると色や臭いといった「垢」がついていく、便所という言葉が汚くなってしまう、というようなこともおっしゃった。そして、言語は記号であり、また恣意的であるので、「座るためのもの」を “isu”(椅子)といっても“chair”といっても「座るためのもの」には変わりはない、ということもおっしゃった。言語学の専門家にはこんなことは当たり前であろうが、初学生の私には新鮮な学びであった。
 
コロナウイルス、coronavirus、新型冠状病毒、Covid--19

コロナウイルスは英語でcoronavirusであるが、coronaは「王冠」という意味のラテン語、virusは「毒液」という意味の同じくラテン語を語源とする語である。この我々に病気をもたらす物体が発見されたとき、丸いその物体のふちに王冠の突起のようなものがあるので、coronaだ、しかも毒(virus)を持っている、そこでcoronavirusと名付けたのだろう。日本語には外来語を取り入れるのに便利なカタカナ表記があって、英語のcoronavirusを「コロナウイルス」という日本語読みにして使っている。中国語では「新型冠状病毒」というそうで、coronaとvirusのラテン語の意味を漢字で表していることがわかる。この病気の「実態のようなもの」を知るには、日本語のカタカナ表記よりも中国語の漢字表記の方が私たちにもわかりやすい。このウイルスがもたらす病気の英語名はCovid-19で、日本語では「新型コロナウイルス感染症」と一般にいわれている。
英語のCovid-19とはcoronavirusのcoとvに「病気」の意味を表すdiseaseのdを組み合わせたもので、19は2019年に発生あるいは発見したことを表している。

Covid-19は英語圏の人にとってはcoronavirus diseaseの略語であり、そのように病名として理解される語であるが、一般の日本人には単なる記号に思われることだろう。ところが、「あの人、新型コロナだって」といわれるとドキリとして、「怖いね」、「日頃の生活があれだからね、自業自得だね」、あるいは「自粛中に何をやっているのだ、非常識な奴だ」といった言葉が聞こえてきそうである。私たちはこの5カ月あまり、テレビや新聞などで「新型コロナウイルス」という語とそのウイルスがもたらす悪影響をさんざん見たり聞いたりして、いつの間にか単なる記号に過ぎない「新型コロナウイルス感染症」という病気を示す語に偏見という「垢」をつけてしまったわけである。その結果、私たちの命を守るために日夜奮闘し続けてくれている医療関係者とそのご家族への差別的な扱いや、感染者に対する心無い発言がなされている。悲しい事態である。
パンデミック、クラスター、オーバーシュート、ロックダウン

この病気が初めて出てきて、専門家がテレビで説明したとき、「パンデミック」、「クラスター」、「オーバーシュート」、「ロックダウン」という訳の分からない用語が飛び交った。早々と一政治家から日本語でわかりやすく言えという注文が出されて、「世界的大流行」、「感染者集団」「爆発的患者急増」「都市封鎖」というような日本語が当てられるようになった。「クラスター」や「パンデミック」は日本語に定着しつつあるようで、新聞でも普通に使われるようになっていると思うが、他の2語はあまり目にしなくなった。「都市封鎖」あるいは「爆発的患者急増」といわれると、私たちは言葉の持つイメージの恐ろしさに衝撃を受けてしまう。しかし、「オーバーシュート」に「ロックダウン」では、何のことかわからない。「感染者が急激に増えるのですよ」、「町の往来を禁止して、商店を閉じて、皆が家にこもるのです」との解説があって、ようやくそういうことかと理解する。このように意味のよくわからない用語を使うことによって、事の重大さが弱められ、余計な混乱を避けることができるかもしれない。しかし、私たちが十分に気をつけなければならないのは、そういう言葉遣いに惑わされて、事の重大さや深刻さを見逃したり、間違った解釈をすることである。それを避けるために、私たちは日ごろから言葉に対する感覚を磨き、言葉に付着した「垢」にごまかされることなく、新たな用語や訳の分からないカタカナ語に出会ったときには、落ち着いてその語の表す対象物を考えることである。「緊急事態宣言」が発令されたとき、はじめて耳にしたこの用語に、私たちは緊張感をもって対応した。「緊急事態宣言」が「解除」されると、今度は安心感が漂い始めた。「便所」という語に臭いがついたのと同じように、いつのまにか、「緊急事態宣言」という語にコロナ菌という「垢」がついてしまい、「解除」されたとたんに、そのコロナ菌が消滅したかのような錯覚に陥った感がある。「緊急事態宣言」は解除されたが、コロナ菌はまだあちらこちらでしぶとく生きている。しばらくは皆で気を引き締めて我が身を、そして社会を守る行動を心がけなければならない。
 



執筆者 江藤秀一
学長・外国語学部 教授
(専門は英文学)

ページの先頭へ戻る